院長のことをより詳しく知りたい方へBLOG
2020/12/31
自己紹介ページをご覧いただき、ありがとうございます。
少し長くはなりますが、ぜひご覧ください。
人生のミッション
私が一番嬉しく感じることは、
『今までこんなに詳しく説明してくれたことなかった』
『うちの子どもは今まで歯の治療ダメだったのに、ここに来たら出来るようになった』
『これから歯磨き頑張ります!』
と言ってもらえることです。治療が上手に出来るのは当たり前。常に勉強するのも当たり前。
誰もが納得して、安心して治療を受けてもらえる、虫歯や歯周病になったことは仕方ないけれど、これからはお口に関心を持って豊かな未来をお手伝いさせてもらえるよう、様々な取り組みを行なっていきます。
このページでは、初めて行く歯医者に対する不安を少しでも減らしていただくきっかけとなればと思っております。私という人柄を少しでも理解していただけたらと思います。
誕生
私は大分県中津市耶馬渓町という自然豊かな田舎町に次男として生まれました。祖父、祖母、父、母、兄の6人家族で幸せ家族でした。
幼少期
この頃は『生きるために食べる』ことだけを考えていたと思います。食べ物が無いといった意味ではありません。家族の中で一番小さな私は、食べるスピードが遅く、さらに兄は4歳離れているため私よりも食事のスピードが早く、食事が大皿や鍋で出てきた場合、食べたいものが残っていないということもしょっちゅうありました。鍋の〆のうどんは戦いです。
自然にありふれた環境でもあったため、遊び道具は自然の中に溢れていました。田んぼ、小川、畑、虫など今では触れる機会が少なくなったものが一歩外に出ればたくさんありました。
この頃から水泳を学ぶようになりました。
小学校時代
良く食べる子でした。次第に太っていきました。
小学校にあった唯一の部活動であるサッカーを始めました。これまで経験したことが無いほど、走った記憶しかありません。決して抜きん出たスキルがあったわけではありませんでした。レギュラーを勝ち取るためにはどうしたら良いか、何か自分にしかないものはないか?そう考えるようになり、利き足でない方でも蹴れるようになったらどうだろう、キック力と正確性を上げて、フリーキックやコーナーキックが蹴れるようになれないか?
そう考え始めました。
利き足でない左足でばっかり蹴っていたら、それはバカにされ、監督にも怒られと最初は散々でした。なぜかその頃から、始めると決めたら頑固だったようで、挫けず継続しました。すると、次第に精度が上がり、最終的には左サイドバックを任せてもらえるようになり、コーナーキックも任せてもらえるようになりました。人と同じことをしていたらレギュラーを勝ち取ることが出来ないことが早い段階でわかっていたので、良かったのかもしれません。
中学・高校時代
そのまま地元の耶馬渓中学へ進学しました。そして、迷うことなく野球部へ入りました。父も兄も野球をしており、その流れは自然だったのかもしれません。
高校は親元を離れ大分市にあります大分東明高校に進学し、厳しい寮生活が始まりました。親に任せっきりで、今まで行ったことがない洗濯や掃除を行うようになり、両親への感謝、先輩の怖さを十分に学んできたと思います。体育祭の時には寮生で応援団を結成し、団長としても先頭に立つことができた経験は非常に貴重なものでした。
大学時代
大学は長崎大学へと進学しました。修学旅行でしか行ったことのない土地に住む不安はありましたが、全国各地からやってきた同級生のおかげでその不安は払拭されました。
テニスをやってみたいと思っていたのも束の間、野球経験者であることがバレてしまい、半ば強制的に野球部へ。。テニスをしたかった野球部員は気がつけばキャプテンにまで到達していました。
家庭教師・塾講師・ガソリンスタンドのアルバイトと学生を両立させながら卒業することができました。
学生時代は微生物講座でお口の細菌についての研究にも携わり、自分にとって研究職はどうなのか知ることもできました。
大分大学研修医、医員時代
歯科医師となって私は地元大分にある大学病院に勤務しました。大学病院という特殊な病院のため受診してくる方々は様々な全身の病気を抱えていたり、口腔癌の方、深い位置に埋まった親知らず抜歯となる方など街の歯科医院ではそれほど出会うことのないものばかりでした。
全身麻酔で手術を行った方の術後管理など今まで行った経験がなく、日々行うことは勉強になるものばかりでした。学会発表や論文作成など、自分が行ってきたことをいかにわかりやすく伝えられるかも学ぶことができた貴重な時間でした。
別府市の歯科医院で歯科・矯正歯科での非常勤時代
小児歯科に出会ったのもこの頃です。小児歯科ではものすごい泣き声やネットに入れられた子どもたちの虫歯の治療を行なっていたイメージがありました。しかし、ここでは優しい先生、優しいスタッフ、泣かずに治療を受ける子どもの姿があったのです。
まだまだ技術も経験も未熟だった私は戦力にはならなかったかも知れませんが、小児歯科に対する考え方が変わりました。また、矯正治療も行なっていたため、歯並びが良くなっていく姿を見て興味を持つようになったのもこの頃です。
北九州市の歯科医院での勤務医時代
小さなお子さまから高齢の方まで多くの患者さまが受診され、歯科治療のノウハウ、コミュニケーション、治療技術、治療スピードまで多くのことを学ばせてもらいました。自分にとって治療技術の基礎となったのは言うまでもありません。入れ歯や金属の詰め物・被せ物を作ってくれる歯科技工士さんも常駐していましたので、自分の削った形が問題ないかも技工士さんと一緒に確認できたのも良かったと実感しています。
雇われ院長時代
新たな歯科医院を開業する際に、院長として任命してもらえました。ここからは試行錯誤の毎日です。今までと違って誰も助けてくれません。自分が判断することが全てです。どうやったら患者さまが自分自身の今のお口の中の状況を理解してもらえるか、治療内容を納得してもらえるか、自分のお口に興味を持ってもらえるか、そればかり考えていました。
様々な説明ツールを作り、私自身も説明を行いやすい状況を作ってきました。
技術をどれだけ上げても、それが伝わらず、これからずっと美味しく食事が出来る・お口に何不自由することがない生活を送るために必要な情報を提供できなければ意味がないことに気づかされました。
開業に至るまで
ご縁があり、この地で開業することとなりました。
今までの人生において、ちゃんとお話する機会のなかった、税理士の先生や銀行の方とお会いし、私が目指す歯科医院、歯科医師像をこれでもかと言うほど話してきました。
私は地域の方々から親しんでもらえる、信頼してもらえる歯医者さんを目指して日々研鑚や改善を怠りません。来てくださった患者さま、働くスタッフ達、そして自分の家族が幸せと感じてもらえるよう全力を尽くし、来て良かったと感じてもらえる夢の歯科医院を目指してまいります。